校庭の隅にある百葉箱の影で、拓海は手に持った虫取り網を握りしめていた。ターゲットは、プールのフェンスの頂点に止まっている一匹のトンボだ。夕日を浴びて、その胴体は燃えるような赤色に輝いている。
「また探してるの? アキアカネ」
声をかけてきたのは、図書委員の葵だった。
「アキアカネじゃないよ。これは、たぶん『ナツアカネ』だ」
拓海が答えると、葵は不思議そうに首を傾げた。
「トンボって、秋に赤くなるから『赤とんぼ』なんでしょ? 夏のトンボなの?」
「みんなそう思ってるけどさ」拓海は網を低く構え直しながら、小声で説明を続けた。「秋に見かける赤いトンボの代表は『アキアカネ』。でも奴らは、夏の間は涼しい山の上に逃げてて、秋になると体に赤みがして里に降りてくるんだ。でも、今目の前にいるコイツは顔まで真っ赤だろ? 夏の間もずっと平地にいて、全身が成熟して赤くなるのが『ナツアカネ』なんだよ」
葵は感心したように目を細め、西日に照らされる小さな赤を見つめた。
「へえ……ずっと同じ場所にいて、じっと赤くなるのを待ってたんだ。なんか、山に行って帰ってくるやつより、愚直でカッコいいかもね」
「だろ?」
拓海がそっと踏み出した瞬間、チャイムの音が校舎に響き渡った。
驚いたトンボはすっと舞い上がり、オレンジ色に染まる秋の空へ溶け込んでいく。拓海は網を下ろし、苦笑いを浮かべた。
「逃げられたか」
「ううん、逃げたんじゃないよ」
葵は空を見上げたまま言った。
「やっと自分の季節が来たから、走り回りにいったんじゃない?」
見上げると、一匹だけだと思っていた赤い影は、夕焼け空のあちこちに増えていた。山から帰ってきたアキアカネか、ここで夏を耐え抜いたナツアカネか。区別はもうつかない。けれど、風に乗って飛び交うその姿は、間違いなく季節が移り変わったことを告げる、秋そのものの光だった。
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