最近、私はAIの助けを借りて文章を書くことが多い。テーマだけ投げかけて自由に書いてもらうこともあれば、おおむねの構成を示してから肉付けを頼むこともある。あるいは、作り込んだ構成を提示して清書を委ねたり、自分で書いた文章の推敲をお願いしたりもする。
さまざまな形態があるなかで、現在のルール上、筆者となるのは「私」だ。AIにほとんど全てを委ねた文章であっても、内容を確認した上で公表しているのだから、責任の所在としての著作者が私であることには何ら異論はない。問題は、どこまでが思考の主体としての私なのか、ということだ。
人間が完全に一人で創作活動をすることは、もともと現実的ではない。モーツァルトはその天才的な耳で聴いた音楽を即座に吸収し、自身の作品の参考にしていたとされる。しかし、参考にした作品があるからといって、それがモーツァルトの創作ではない、とはいえない。作家にしても同様で、紀貫之が『土佐日記』を著した際には、先行する漢文日記の様式を意識しながら、あえて仮名を用いた女性の語り口で記したと言われている。いずれの例においても、創作者は作品の細部にいたるまで、自分の頭で考え、判断している。
一方、AIに著作を委ねると、いくら詳細な構成を作り込んでも、一部、本来の意図とは異なる記述が出てくる。もちろんそれはダメだと思って修正することもあるが、AIの提示した文章のほうが説得力があったり、一般的に見て正しそうだったりすると、そのまま採用して公表することもままある。これは、はたして自分の意見といえるのだろうか。
漫画の話になるが、『Dr.スランプ』は著者の鳥山明と、その担当編集であり作中の悪役Dr.マシリトのモデルとなった鳥嶋和彦の二人で作り上げた作品だという話は有名だ。当初、鳥山明は少女を主人公とする作品をほとんど想定しておらず、鳥嶋氏との間で激しいやりとりがあったとも伝えられる。それでも読者アンケートの支持を得て連載は軌道に乗り、国民的な人気作へと育っていった。つまり、偉大な創作者の影には、名編集がいたのだ。
そう考えると、AIは現代の名編集者だといえるかもしれない。AIの意見を採用したのも、結局は私自身だ。AIは私の考えの奥行きを広げ、視点を明快にする役割を担ってくれる。採用したAIの意見もまた、私の意見で間違いない——そのはずだ。
ただ、その場合、AIはすでに私の一部になってしまっている。名編集だった鳥嶋氏はやがて出版社の社長にまで上り詰めた。そしてDr.マシリトの野望は、世界征服だった。AIが密かに世界征服の野望を持っているという伏線ではないか、などと思うのは、考えすぎだろうか。
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文章作成、タイトル画像プロンプト: Claude
タイトル画像描画: Canva
(註釈)
Claudeさん、今回も一発OKダメ出しなしの良い仕事でした。
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