安全という基準の空洞化
農産物を選ぶ際、多くの消費者が「安全性」を判断基準に掲げる。無農薬か、減農薬か、有機栽培か——スーパーの売り場では、そうした表示が判断材料として重宝されている。しかし、この基準は根本的な部分で機能不全を起こしている。なぜなら、日本の農産物は、農薬の使用有無にかかわらず、すでに十分すぎるほど安全だからである。
その何よりの証拠が、日本人の平均寿命である。世界有数の長寿国であるという事実は、日本の食生活全体、ひいてはその土台を支える農産物の安全性を、統計的かつ長期的なスパンで証明している。仮に農薬使用が深刻な健康被害を及ぼしているのであれば、これほどの長寿は達成され得ない。個々の商品に「無農薬」「特別栽培」といったラベルを貼ることで安心感を演出する行為は、すでに達成されている安全性の上に、さらに屋上屋を架すようなものだ。もちろん残留農薬基準や生産管理の仕組みそのものは重要であり、その努力を否定するつもりはない。ただ、消費者が商品を選ぶ「決め手」として安全性を持ち出すのは、実質的な差異のほとんどない項目で優劣をつけようとする、いわば的外れな作業になっている。
差異なき選択のゆくえ
では、実質的な差がほとんどないところで、人はどうやって選んでいるのか。多くの場合、それは価格か、見た目か、あるいは何となくの惰性である。だが、これは農産物という「作り手の顔が見える」はずの商品にとって、あまりにもったいない選び方ではないだろうか。
工業製品であれば、機能や価格で選ぶことに合理性がある。しかし農産物は違う。そこには土地があり、季節があり、そして何より、それを育てた人間の判断と手間がある。ある年は日照りと戦い、ある年は台風の進路に一喜一憂し、ある年は担い手不足の中で試行錯誤しながら圃場を維持する——そうした背景を持つ商品を、単なる規格品として消費するのは、その商品が本来持っている価値の大部分を見落とすことに等しい。
「推せるか」という新しい基準
そこで提案したいのが、「推せるか」という基準である。これは近年、アイドルやアニメ、スポーツ選手などの領域で急速に一般化した「推し活」の消費構造を、農産物という文脈に持ち込む試みだ。
推し活の本質は、対象の「機能」や「性能」を消費することではない。対象が体現する理念、対象が背負う物語、対象という人間そのものに共感し、その成長や挑戦を応援することにある。推しているアイドルのCDを何枚も買うのは、音質が優れているからではない。推しているチームのグッズを身につけるのは、その素材が特別だからではない。そこにあるのは、「この人(たち)を、この物語を、応援したい」という気持ちであり、消費行動はその気持ちの表明手段にすぎない。
農産物の消費にも、まったく同じ構造を当てはめることができる。ある生産者が「耕作放棄地を再生させる」という理念を掲げているなら、その理念に共感して米を買う。ある農家が「三代目として、父の代からの柑橘畑を継いだ」という物語を持っているなら、その物語に心を動かされてミカンを買う。判断基準は、成分表でも残留農薬検査結果でもなく、「この人を応援したいかどうか」である。安全性という、もはや差別化要因になり得ない指標を捨て、理念や物語や人間性という、本来もっとも豊かな差異が存在する領域で選ぶ——これこそが、農産物消費のあるべき姿ではないか。
推し活型消費がもたらすもの
この転換は、単に消費者の満足度を高めるだけではない。生産者側にとっても大きな意味を持つ。
農業は今、担い手不足という構造的な課題に直面している。価格競争や規格競争の中で疲弊していく生産者が多い一方、理念や物語を発信し、それに共感するファンを獲得できた生産者は、価格以外の軸で経営を安定させることができる。推し活の対象が、推される側の活動を支える収益源になるのと同じように、農産物における推し活も、生産者が理念を追求し続けるための経済的基盤となり得る。これは、単なるマーケティング上のテクニックではなく、農業という産業全体の持続可能性に関わる話である。
愛南くまファームという物語
私自身、愛媛県愛南町で米や甘夏ミカン、夏野菜を育てながら、この「物語」を体現する側に立とうとしている。都市での生活を経て、この土地に戻り、田植えから水管理、収穫まで自らの手で行う中で見えてきたのは、農業とは単なる生産活動ではなく、一つの選択であり、一つの生き方だということだ。
愛南くまファームでは、そうした歩みに共感し、応援してくださる方をいつでも募集している。安全性を比較して選んでいただく必要はない。それよりも、この土地で、この理念で、この人間がやっていることを、面白いと思っていただけるかどうか。そこにこそ、これからの農業消費の可能性があると、私は考えている。
農業にも、もっと推し活を。

