――人は事実ではなく、物語に動かされる――
一 「客観的」という幻想
「私は客観的な事実に基づいて話している」という言い方を、私たちはしばしば耳にする。しかしその実、そのような主張をする論者の文章を丁寧に読み解いてみると、そこには必ずある種の選択と配列が存在することに気づく。無数にある事実の中から、何を取り上げ、何を捨て、どの順序で提示するか――その一連の判断そのものが、すでに論者の意図と価値観を帯びている。
科学哲学の文脈では、これを「観察の理論負荷性」と呼ぶ。何かを観察し記述するという行為は、すでにある理論的枠組み、すなわち解釈の前提に依存しており、純粋に中立な事実の提示というものは原理的に困難なのである。「客観的」とは、その多くの場合、「自分の物語を、事実という衣で包んだもの」にすぎない。
ここで私が「物語」と呼ぶのは、フィクションのことではない。首尾一貫したひとまとまりの論述、すなわち、事実を選び取り、意味を与え、因果の糸でつなぎ合わせた構造体のことである。その意味において、いかなる論述も多かれ少なかれ物語の形をとらざるを得ない。問題は物語であることそのものではなく、自らが物語を語っているという自覚を欠いた状態で「客観」を標榜することにある。
二 人は事実ではなく物語に動く
客観的な事実やデータを提示されるだけでは、人の心も行動もなかなか変わらない。これは直感的に多くの人が感じていることだが、認知科学や行動経済学の研究もまた、同様の知見を積み重ねてきた。人間の思考は、論理的な推論に先んじて、感情や直感が働く。物語はその感情と直感に直接訴えかける形式として、圧倒的な説得力を持つ。
もちろん、これは絶対的な法則ではない。たとえばワクチン接種率に関する一部の研究では、感情的な物語よりも、統計とリスク比較の明示が有効だったとする報告もある。専門的な訓練を積んだ科学者や法律家の判断においては、物語への情動的な引きずられ方が相対的に抑制されることもある。「人は物語で動く」という命題は、傾向の指摘として理解されるべきであり、例外なく適用できる鉄則ではない。
それでもなお、この傾向は無視できない広がりを持っている。歴史を振り返れば、民衆を動かしてきたのは、統計よりも英雄譚であり、政策よりも物語であった。人は数字の集積よりも、一人の具体的な人間の苦境に心を動かす。その力学を理解しないまま「正しい情報を提供しさえすれば人は正しく動く」と信じることは、人間の認知の現実から目を背けることになる。
三 物語の罠と、逃れられない構造
しかしここに、深刻な逆説が生まれる。物語が人を動かす力を持つということは、同時に「嘘でも説得力のあるフィクションが人を動かす」ということでもある。巧みに構成された虚偽の物語は、無味乾燥な真実よりも人の心に刺さる。この事実は、情報が氾濫する現代社会においてとりわけ大きな意味を持つ。
では、「逆の立場の物語にも耳を傾けよ」という処方箋は有効か。複数の視点から眺めることで、物事が立体的に見えるという主張は、倫理的な姿勢として正しい。しかしそれだけでは、問題の本質には届かない。なぜなら、複数の物語を摂取したとしても、最終的にどれかの物語に情動的に引きずられるのであれば、物語の罠からは逃れられていないからである。
ここで想起すべきは、視覚の錯視図形である。ミュラー=リヤー錯視を例にとれば、二本の線分の長さが実は等しいと知識として完全に理解したあとも、片方の線は依然として長く見え続ける。認知バイアスとはそのようなものだ。「自分は物語に動かされやすい」と自覚したからといって、その傾向が消えるわけではない。自覚は入口であって、出口ではない。
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四 それでも、自覚することの意味
それならば、自覚することに意味はないのか。そうは思わない。ただし、その意味を過大評価してはならないということだ。
地球上に立っている限り、私たちは地球が猛烈な速さで宇宙空間を移動していることをほとんど感じることができない。しかし、その事実を知っていれば、自らの立脚点の相対性を意識することはできる。認知バイアスへの自覚もそれに近い。バイアスを完全に除去することはできないとしても、「今自分はどのような物語に引きずられているか」を問う習慣を持つことは、判断の質を少しずつ変えていく。
重要なのは、「自分の物語」と「他者の物語」を、ともに暫定的なものとして扱う姿勢である。自らの論述が物語の構造を持つことを認めること、そして他者の論述についても、その物語としての構造を見極めようとすること。それは知的な誠実さの基本であると同時に、今日の情報環境を生きるための、最低限の知的装備でもある。
おわりに
上下左右から眺めてこそ、物事は立体的に見える。この直観は正しい。しかしその行為そのものも、完全に中立ではあり得ない。私たちは物語という檻のなかで思考する。その檻の存在を知ることが、まず第一歩だ。
自覚は出口ではないが、出口を探すための地図を手にする、最初の行為である。

